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ジャッジの裏側に

体育で扱っているベースボール型のゲーム(ピッチングダッシュという名前になりました)で揉め事が起きました。

「相手のチームをひいきしている。」

事の始まりは、審判のジャッジにいちゃもんをつけたことです。

今回は敢えてこちらで事態を収集することはしませんでした。
むしろ焚き付けました。
その時間では終わらないのを見越した上で、です。

なぜそうしたか。
それは「認める」ということを考えて欲しかったからです。
体育ノートを見ると、一部の子は気づき始めていると感じます。
更に一歩進んだ子は、チーム(ワーク)が成り立つか否かということと結びつけて、審判の役割とゲームそのものの成立条件にまで考えを巡らせていました。
ところが、他者(当事者以外も含む)の声に耳を傾けられず、一方的に自分の意見を主張し続ける姿も見られました。

その姿は、プレイヤーと審判は見ている場所が違うという前提や、このままではゲームが楽しくないという意見が挙がったとしても変わることはありませんでした。
ただひたすら自分にとって利益になることを追い求めようとしているのです。
しかも、ここまで言ったら今更引き下がれないというわけでもなさそうです。

勝利を追い求める姿は素晴らしいと思います。
彼らにとっては、ひたすら利益を追求したいくらい切実感のあるゲームになったことも良いことです。

でも、友だちの意見を聞き入れることができなかったり、意見の調整ができないのはいただけない。

「おまえらには関係ないだろ!」
大ありです。
ゲームをつくっているのはクラス全員です。

「でもさ〜」
意見を聞き終わる前から反対しようと思っているのだろうか。
話し終わる前に出てくるのが気になる。

友達を認める。

意見を認める。

これまでのゲームでは何となく、はぐらかしてきたのかもしれません。
それは置いといて、次どうするか?
解決策ではなく、回避策ですね。

今回はかなり困ったんじゃないでしょうか。
混沌とした場面もありました。
でも、ドロドロしたところから見えてくることもあるでしょう。
怒りや憤りの感情は決して悪いことばかり生み出すわけではないとも思います。

聞いてくれない、という人は聞いてくれるまで粘ってほしい。
聞き入れられない、という人はまずその意見の良い部分に耳を傾けてほしい。
その辺はあっさりしてなくても良いんですよ。

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